泣く必要はない。
枯れ木の様に細くなった腕でトルテは最愛の妻の手を掴み微笑んだ。
出逢った頃と変わりない、若く美しい妻。
それに比べ、自分は最早あの頃の面影など何一つない。
それでも。
まるで凪の様に心は穏やかだった。
悔いがないとは言わない。
けれど良く生きたと思う。
最愛の人に出会い、
そして、その最愛の人に見送られるのは至福だと思えた。
「ありがとう、シャナ・・・」
妖精と人間。
違う種族である自分を愛してくれて。
時間の流れが違うと言う事は、
絶対的に先に逝く事だと分かっていたのに君を愛した。
それを受け入れてくれた君には、
どれだけ感謝の言葉を尽くしてもきっと足りないだろう。
穏やかな顔でトルテは重くなった瞼を閉じる。
思い浮かぶのは出会った頃の妻と、
懐かしい友達の顔。
悔いも後悔もない。
最後に妻に愛してると言い残し。
彼の生涯は幕を閉じた。
・・・・・・それは陽炎の様な蝶が友人の元へ訪れる少し前の話------
其は無明の闇に差し込む光
自分も行きたい。
そう言い出したポップにマトリフは少し驚いた顔で振り返る。
どうしてこの愛弟子は、こうも人の心に聡いのか。
不安げな瞳を揺らし、自分を見つめるポップに、マトリフは穏やかに笑う。
じわり自分の心にと染込む温かなものを感じながら。
「・・・白の正装用意しな。」
それだけ呟けば、ポップはぱっと瞳を輝かせた。
「すぐ支度してくる!!」
文字通りベットから飛び出し、ポップは自室に走った。
その様子を見ながら、マトリフは小さく息を付き、ベットサイドに腰掛けた。
今更ながらに自分は緊張していたのだと、そう感じて。
大切な友人だった。
厳しかった師から卒業の二文字を貰い、始めて一人で旅をした時に出会った
始めての仲間だった。
それはもう遥か遠い日の記憶。
歩く道こそ別々になったけれど、
忘れた事はない友人。
その彼の旅立ちを見送る事が、
自分に出来る最後の餞だと呟き、マトリフは大きく息を吸い立ち上がった。
「なぁ、何処まで行くんだ?」
テランと今亡きアルキードの国境近くの鬱蒼とした森の中、
ポップは前を歩くマトリフに声を掛けた。
このまま先に進んでも、今は岬があるだけで何もないだろうと言えば。
付いて来れば分かると言われるだけで。
相変わらず必要以上に語らない師に、ポップは諦めた様に黙って後に続く。
それにしても、と辺りを見回しながらポップは僅かに気を張る。
何度も同じ場所を歩いている様な感覚と、
時間を狂わせる感覚。
肌に刺さるのは好意的ではない微弱な魔法力。
迷いの森の一種なのかと、僅かに体に魔力を蓄積し。
ポップは喋るのをやめる。
何時でも呪文を紡げる様に。
その様子に気付いたのかマトリフは、くっと喉を震わせ背後に向かい呟いた。
「ポップ。大丈夫だ。」
問題ない。と傍から聞けば理解出来ないマトリフの呟きに、
ポップはその警戒心を解き、ゆるゆると蓄積した魔力を開放していく。
多くを語らなくとも、師が大丈夫だと言う以上は何も心配する事はないのだと。
そんな絶対の信頼感がそこにはあった。
どれくらい歩いたのか。
時間の感覚が狂っているこの森でそれは把握出来ないが、
喉が水を欲し渇きを訴え始めた頃。
マトリフはぴたりと足を止めた。
やっと着いたのかと、背後から顔を覗かせ、周囲を見たポップの動きが止まる。
「こ・・・ここは・・・・」
こくりと喉を鳴らし、やっとの事でそれだけを呟く。
目に見えて変わるものは何一つない。
相変わらず周囲には木々が広がるだけ。
だが、そこには目に見えない何かがあった。
マトリフがじっと見詰める先を見れば、
目には見えずとも膨大な魔力が蓄積されているのが分かる。
それは先程から感じていたものと同じで。
成る程と、この場所を中心に浸透していた魔力を感じていたのかと、ポップは小さく頷いた。
その時、魔力の中心部がぐにゃりと歪み、
空間に一筋の線がゆっくりとなぞられていく。
淡い発光と共にそれは徐々に大きく形取られ、
そこから一人の女性が姿を表した。
柔らかな金の髪に緑の瞳。
整った顔立ちのその女性の耳は小さく尖り、
人とは異なる種族である事をはっきりと指示していた。
白いローブを身に纏った彼女は、ゆっくりマトリフの前まで歩み寄る。
「・・・シャナ・・・」
ぽつりとマトリフが呟けば、シャナと呼ばれた彼女は穏やかに微笑んだ。
「お久しぶりです、マトリフ。」
「・・・ああ。あんたも元気そうで何よりだ。」
「貴方も。若返ってらして驚いたけれど元気そうで何よりですわ。」
「まぁ、色々あってな。」
流石に悪友の薬に所為で若返ったとは言いにくいのか、言葉を濁し苦笑するマトリフに、
シャナはクスクスと笑い、そして視線をポップに向けた。
「こちらの可愛らしい方は?」
「は、初めまして・・・」
はんなりと微笑んだシャナに話題を振られ、ポップは慌てて会釈する。
お弟子さんかしらとそう聞けば、マトリフはその様なものだと頷き。
その何気ない遣り取りに、ポップは胸が痛むのを感じた。
それは弟子と言われたからではない。
ただ、決して自分は入れないだろうその雰囲気を肌で感じ取ったから。
そうして改めてポップは気付いた。
自分はこの人の過去を何も知らないのだと言う事に。
長く年齢を重ねて行けば、語りたくない過去も、言いたくない事もあるのだろうと。
あまり自分を語らないマトリフにそれを聞いた事はなかった。
話してくれる気になった時でいいのだとそう思っていたから。
けれど。
自分の知らない過去を知っている人がいる。
その事実に直面し、
それを目の辺りにする事が、
これだけ胸が痛むのだとは知らなかった。
じわじわと広がる胸の痛みをぎゅっと拳を握り堪えていると、
それに気付いたのか気付いてないのか、つと視線をポップに戻し微笑んだ。
「我が夫の新たな旅立ちに来て下さってありがとう。人の子よ。
ジャバラの村は貴方を歓迎します。」
淡い光の筋を通り抜ければ、そこには小さな村があった。
青々とした一本の大樹を中心にしたその村は、
清らなかな水が流れ、たわわに実った果実と、金色の穂が揺れる畑。
それと幾ばくかの家畜で構成される、穏やかな村。
争い等とは無縁に見えるそれは、
同時に世界から隔絶されている事を指し示している様だと
ポップが思った時、隣に立っていたシャナが言葉を紡ぐ。
「シャバラは40年ほど前に出来た歳若い村。
この村は、妖精と人の混血が住む村なのですよ。」
今から40年前、妖精界では新たな女王が誕生した。
先代の女王が人との共存を望んでいたのに対して、
新たな女王は人との関わりを極端に嫌った。
否。嫌っている等と生易しい言葉では済まないそれは憎しみにも近く。
新たな女王は人間との関わりを一切禁じ、
そして、それに反対する者、人の血が流れる者全てを追い出した。
切り捨てたとも言えるその行為に反対する間もなく、その後妖精界は閉じられ。
追い出された者達が集まり新たに住まう場所をと作ったのがこのシャバラだった。
言わば捨てられた者達の村なのだと紡ぐ彼女の表情は悲しみに彩られていたが、
後悔は見えなかった。
「・・・貴方も混血なんですか?」
聞いて良いものかと戸惑いがちにそうポップが言えば、
シャナは小さく頭を振って微笑んだ。
「いいえ、私は妖精。けれど私の愛した夫は人だったの。」
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